ぽつぽつと小雨が降り始めている。
暗くなってきた。
そろそろ電気点けるか。

「日吉はさあ、かーわいいなー」

楽しそうに、柔らかく幸せそうにへにゃりと笑う。
当然の事ながら男の俺が男に、女性に言われればいいというわけではないけれど、かわいいと言われてもうれしくも何ともない。
ここが重要だ。むしろ撤回していただきたい。

「………それはどうも」

けれどこの人にこの台詞を言われるのはもはや日常茶飯のことで、もう100回目かもしれないし1000回を越えているのかもしれない。
いくら何でも慣れるだろ。
慣れるというよりは、そうだ、普通、だ。
そっちの方がこの状態に近いかもしれない。

「かわいい」という言葉が、この2人でいるには少し手狭で置いてあるものの趣味すら合っていないこの部屋に馴染んで溶け込みすぎているのだ。
だから普通。

「なんての? ウブ? でさあ。イマドキ女の子だってもっとガツガツしてるっしょ。かわいいかわいい」
「それはどうも」
「む。もうちょいこうさ、照れてみたりしてみてもいいんでないの?」
「慣れてしまいましたよ。不本意ながら」
「褒めたばっかなのに!」

部屋の大部分を占めているソファに寄りかかってあぐらをかいて頬を膨らませていた。子供だ。

「アンタ幾つですか」
「21」
「別に答えてくれなくて結構です」
「だって日吉がかわいくねえこと言うから!」
「悪かったですね」
「昔はすぐ赤くなってかわいかったのにー! 時の流れは残酷だ! あの頃のシャイでウブな若くんはどこ行っちまった!」
「アンタのせいだろ」

丸いクッションを抱えてぎゃんぎゃん吠える芥川さんは放置して、壁のスイッチを押す。薄暗い部屋がぽっと明るくなった。
ああ、カーテン閉めないとか。
そういえばこの間この人が電気点けっぱなしカーテン開けっぱなしで眠りこけていたら、外から部屋の中が丸見えだった。

シャッと音を立てて濃い黄色のカーテンを引く。右、左。

まだぐずぐず言ってるのか。
暇ならもう風呂入ってきてくれないだろうか。別にもう出掛ける予定もないだろうしいいだろ。

「やることないんなら風呂入ってきたらどうです? 早風呂嫌いじゃないでしょう」
「いっしょ入る?」
「いいえ結構です」

もうこのカップも片付けるか。
オレンジのマグカップの方に半端に一口残っているがもう飲まないだろうから片付けてしまって構わないだろう。
そう思ったところで後ろからの文句が聞こえなくなったことに気がついた。
まだ風呂は沸かしていないのだが。

「かわいくてシャイでウブな若くん」
「だから慣れたと」
「いんやいやセンパイを甘く見てもらっちゃ困りますよ」

あいていた左手をぐんと引かれて、低い位置から引かれたのだろうから膝が曲がる。
体勢を本格的に崩す直前に、かろうじて中身の入ったマグカップはテーブルに避難させられた。
後ろから力がかかったのでそのまま身体も後ろへ流れる。せめて前からならば膝をつけたのだろうに。
結局、唐突な行動の犯人の前に尻餅をつくような間の抜けた格好になった。

「突然何を」
「えへ」
「カップ割れても知りませんよ。あれ気に入ってるくせに」

大の大人が、いい年の男がえへ、なんて笑ってもかわいくも愛らしくもない。と思う。
いつまでも子供のつもりかこの人は。
いつまでも子供のようだから周囲が甘やかすのか、周囲が甘やかすからいつまでも子供のようなのか今度真剣に検討しよう。場合によっては跡部さんに説教だ。

気がついていなかったけれど引かれた手は握られたままだったらしい。
もう一度、先ほどよりは幾分か弱い力で引っ張られる。
床にそのまま腰を下ろした形だから、上半身だけ傾く。

傾く一瞬前に見えた顔は満面の笑みで、擬音をつけるならにっこり、ぱあっとではなくもっと力の強い、幼い子供がねだったおもちゃを買ってもらえそうな時のような笑顔だった。
この先に起こる何かに笑っているのだ。にっこりにんまり。


顔が近いと思った。
それは腕を引かれただけではなくて自分から顔を寄せて来たんだろう。
また少し伸びたくせっ毛が首筋に触れる。


 かあわい 


耳元で、ひとこと。
ぼそり。
いつも無邪気な子供のような弾む声で言ってくる台詞を、
いつもより低い声で深い声で
囁かれる。

きっと自分は固まっているのだろう、酷い顔をしているに違いない、そんなことなんて考える余裕もあるわけがない。

なにも真新しいことばを贈られたわけじゃない。
声色が変わっただけ。
そう、声色が変わっただけだ。
だけなのだ。

「かーわいい」

満足げに、いつもの、俺が慣れたと言った声と表情で、またその台詞を繰り返した。

「ふ、ざけ」
「てないよー。言ったっしょ、センパイを甘く見ちゃダメーって」
「……………」
「シャイでウブな若くんはまだご健在ということで! いやーよかったよかったかわいいかわいい」
「アンタどこまで低い声出せるんですか……」
「わりかし低くねえと思うけど。ひよのが低くね?」
「反則だ……」
「まだまだだね!」
「うるさい!」

無意識に片方の耳を押さえて叫べば、いつの間にか全身で抱き込まれていた。いい加減気づけよ自分。

「………風呂沸かしてきます」
「ええーいいっしょまだ」
「もうさっさと入ってください。出てこなくてもいいです」
「ひでー」

放せと言っているんだから放してほしい。
あつい。

「うーんもうかわいいかわE」

両脚まで使って絡み付いてくるその顔は楽しそうでうれしそうで幸せそうで、言うならまあ緩みきっていた。いつもだけど。

使う言葉も幼くて体格は俺の方がいい筈で、顔つきも20を越えたにしては童顔の部類に入るくらいで未だ「かわいい」と形容されて甘やかされているのだ、この人は。
そんな人間に何故かわいいかわいいと抱き込まれねばならない。大変に不本意である。誠に遺憾である。

日吉はさー、ベロちゅーとかも恥ずかしがんじゃん。
つーか日吉からちゅーとかちょうレアじゃん。できねーじゃん?
ほらシャイボーイシャイボーイ。

頬をすり寄せて来ながらにこにこにこにこ。

そんなことを言ってくる目の前の男があまりにも幸せそうで、幸せそうで余裕そうで、
だから、だらしなく緩みきったその顔を引き剥がして肩に手を置いてぐいと思い切り離して、
引き離されて不服そうに尖らせた唇に噛みついてやった。


雨の音が強くなった気がした。






日記で書きたい書きたい言ってた「ジロ若ちゅー話(仮)」です。
この後日吉のS.K.T・N.A.Y(スーパー後悔タイム・何であんなことやっちまった!)が始まるか否かジローさん次第ですね!
100312