「ここにいたのか」 後ろから聞こえた苦笑したような、ほっとしたような声に振り返る。 桜が咲くにはまだ早い。 「ああ。……大変だな」 数十分ぶりに見た友人の姿はその時に比べて確実にくたびれていて、彼が今日という日に抱えているのだろう感情や緊張だけが原因の疲れではないのだということは鈍いと評される俺にも分かる。 制服の袖や胸に付けたままにしてある赤い造花も、心なしかよれているように見えた。 「やっぱり最後だからかな、こればっかりは慣れなくて困るよ」 「襟、折れてるぞ」 「あ、気づかなかった、ありがとう」 でも手塚は俺なんかより大変だろ、と言ってちょいと人差し指で折れたシャツの襟を伸ばす。 ついでといった様子で上着の詰襟にも手をやった。学年章のある位置だ。 「あれ」 「来た時から付いてなかったぞ」 そこには針を通した穴だけがふたつ並んでいて、少しだけ広がっていた。 菊丸や桃城越前辺りならば家に忘れて来たか失くした線を疑うが大石ならそれはないだろう。 「学年章まで持っていかれたのか」 「みたいだな…」 大石は眉尻を下げて笑って、桜の木の根元に腰を下ろした。 ここは派手に咲き誇ることがないからなのか意外と人に知られていない場所で、やんわりとこっそりと女子の集団から逃れて来た(のだろう)大石が避難するにはちょうどいいのかもしれない。 「手塚は大丈夫なのか?」 「ああ、俺は愛想が悪いからな。この通り無傷だ」 「ボタンだけですさまじい価値、か?」 にっこり笑う大石は、赤い花はくしゃりと皺がついていて襟元の学年章はなくなっていて、心臓にいちばん近いものは当然のように、上から下まで金のボタンはひとつ残らずなくなっていて、端的に表現するならぼろぼろだった。 第二以外のボタンがあった筈の場所は少し布がよれて波になっている。 それと比較して自分はボタンがひとつなくなっただけだから、無傷と言ってもあながち嘘ではないだろう。 ボタンがひとつ足りない制服というのは着ていても気持ちが悪くて結局脱いでしまった。 大石は全部ボタンがないから、当然全開になっていて珍しい格好だと思った。 「なあ、手塚」 「うん?」 「手塚は、この後ドイツに行くんだろ?」 「ああ」 引退する時にも言われた「無茶するなよ」がくると思った。 余りにも彼らしい台詞に笑ってしまった。 大石は自分の友人の内でこんな言葉がいちばん似合うだろう。 「がんばれよ」 驚いた。 顔に出ているのかもしれない。 真面目な顔つきだった大石の表情が一気に気恥ずかしそうな苦笑いに変わった。眉尻が下がる。 「そんなに驚かないでくれよ」 「いや……、無茶はするなと言われると思ったからな」 「無茶しろとは言ってないぞ。それは引退の時も言ったしな」 「それもそうだな」 「それに」 風が吹いた。髪が揺れる。 目を細める。 見上げたまま微笑まれる。 「俺が無茶するなって言っても、無茶するだろ?」 「……全国の決勝、根に持ってるのか」 「持ってますよそりゃあもう」 「それはお互い様だろう」 「俺だってさ、お前が無難に大人しくしてるようなタマだとは思ってないよ」 「俺だけか?」 「みんなだな」 見上げられている視線は、皆が言うように母親のようなのかもしれない。 ゆっくりと立ち上がってズボンをはたく。 「俺ももう青学の母じゃなくなるしなあ」 「母卒業か」 「そうだなあ」 笑顔が、少しだけ変わったような、気がした。 「……………」 ふと、大石の左胸についている赤い作り物の花が目についた。 荒波に揉まれてすっかりくたびれている。 萎んだように見えるだけかと思ったが、外側の花びらが二枚抜け落ちているようだということに今気がついた。案外脆いものらしい。 「それ」 「ん?」 「せめてこれくらいしっかりして行け」 相手の萎れた花を外して、上着を脱いだ時に外した自分の花をポケットから取り出して手のひらに押し付ける。 仕舞い込んでいたせいで少し皺がよっているけれど、あれよりはましだ。 赤い薔薇の造花に白のリボン。 卒業おめでとうと書かれたリボンの両サイドには青いライン。 いつものようになのかいつもと違ってなのか「ありがとう」と言われて、何についてのありがとうなのかなんて聞くこともなく愛想の欠片もなく一文字で返事をする。 照れ臭そうなというか、何をやっているんだというような恥ずかしそうな笑いで目の前の友人が口を開いた。 「なーに辛気くさいカオしてんだよ老け顔ども!」 頭よりも上から声が降ってくる。 大石の口も眼も大きく開いていた。 見上げた先の大振りの枝がその声の発信源。 ようやく柔らかくなってきた蕾の樹から、ひんやり暖かい風に乗って、真っ赤な花びらが降った。 (それはまるで、)
(ユニフォーム交換のような、) 自分で書くことは絶対にないだろうと思っていた卒業ネタ。 手塚と大石の友情、ってだいすきです。 100325 「ほれ見ろ父ちゃんと母ちゃんのせいで桃ちん泣きそうになってんじゃんか!」 「泣いてません!」 「英二、ちょっと早すぎたんじゃない」 「ふむ、もう少し待ってもよかったな」 「あーあ、つまんないっスね」 「だってむずがゆくなってきちった」 「まあそれには同感ですけど」 |